» 宗鏡寺の歴史

円覚山宗鏡寺(通称沢庵寺)は、出石町東北、入佐山にあり、
開山は京都五山の一つ東福寺の大道一以禅師でございます。

開基は、当時の出石城主で山名陸奥守氏清公であり、寺名は氏清公の法名「宗鏡寺殿」を
以って名づけたと伝えられ、1392年に建てられました。
山陰唯一の伽藍を誇っていましたが、織田信長の但馬征伐で山名家が滅び、寺もまた荒廃しました。
1616年、小出吉英の援助の元、沢庵和尚を招き、再興されました。以来、京都紫野大徳寺派の但馬における中本山として、現在に至ります。

開山…寺院を開いた第一世住持。 開基…寺院を創建した人物。

沢庵和尚の故郷の寺であることから「沢庵寺」と呼ばれ
人々に親しまれ、代々、出石城主の菩提寺でございました。

沢庵和尚は、天正元年(1573)12月1日出石城下(現:兵庫県豊岡市出石町)生まれです。
父は出石城主・山名祐豊(やまなすけとよ)の重臣・秋庭能登守綱典(あきばのとのかみつなのり)で、和尚8歳の時、山名家は羽柴秀吉に攻められて滅亡、父は浪人となりました。
その2年後、出石浄土宗の唱念寺(浄土宗)で出家し春翁と称しました。

14歳の時、出石藩主菩提寺・宗鏡寺(禅宗)に移り、希先西堂の弟子になり名を秀喜と改めました。
19歳(1591)の時、希先が死去したので、翌文禄元年(20歳)に時の出石藩主・前野長泰の招きで京都の大徳寺から薫甫宗忠(とうほそうちゅう)が住職に任じました。宗忠は大徳寺住持の春屋宗園(しゅんおくそうえん)の弟子で、この時以来、大徳寺との関係が生まれました。

22歳のとき董甫が京都へ帰るのに従って、大徳寺塔頭三玄院に入り、そこで春屋宗園について、宗彭(そうほう)と名を改めました。
28歳の時、董甫が死去したのを機に京都を去り、堺に出て、大安寺に寓居していた建仁寺派の学僧文西西堂について、儒学、詩歌を学びました。

そして29歳の時、文西が死去し、同じ堺の南宗寺陽春庵にいた一凍紹滴(いっとうじょうてき)の許に入り、33歳(1604)の時、一凍の印可を受け沢庵の号を授かりました。

宗鏡寺には花びらが開かないうちに
落ちてしまうと言われる不思議な椿がございます。

その昔、出石城主の側室が、世継ぎを産む必要がなくなったため、庵に幽閉されました。
庭先の椿をじっと見つめながら過ごしていましたが、さびしさや嫉妬のあまり、
とうとう自害してしまいました。
その後、椿は毎年花はつくが、花びらが開かないうちに落ちるようになったと言われています。
このことから、「開かずの椿」、「側女椿」、「咲かずの椿」などと呼ばれています。

宗鏡寺(通称沢庵寺)山門宗鏡寺山門

入佐山から出石を眺める入佐山から出石を眺める

沢庵和尚頂相沢庵和尚頂相

咲かずの椿咲かずの椿